日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

退屈が大好き

なんだか、癒しとかスローライフとか掲げても、結局のところブロイラーのようにそれらを「与えられて」いる訳であって、なんと言うかまぁ流行に踊ってるだけで、何等リラックスしてないよなぁ、というのが個人的には気持ち悪くて、なんかモヤモヤしている訳です。しかも、退屈との付き合い方が下手になる、というか退屈に耐えられない人々が多くなっているんじゃないか、とすら思える昨今。

そんな最中、広告批評88年3月号「特集:さあ退屈しよう」を偶然手に取り購入。先月のとある日曜日に、京都:鴨川の河原を歩きながら考えていたことと、なにやら非常にシンクロする内容であった。

休日の鴨川を歩いていて感じたのは、みんな「退屈を思い思いの方法で満喫している」なぁという「文化的な成熟」であり、これが多摩川とかになると「皆、一生懸命休日を鋭意消化しようと頑張っている」なぁ、という非常に貧相で哀しい感じになる。この差って一体なんだろうと考えることを起点に、退屈であることの意義について考えることへ展開してきた訳だが、しかし東京だけなのか判らないが、とにかく皆「退屈が嫌い」である。

周囲には退屈をしのぐためのツール(携帯、ゲーム、雑誌、漫画、ネット、テレビ云々)がコレデモカというほど横溢し、皆その与えられたものを消費することで、退屈という「何もしないでじーっとしていること」「もしくは継続的内省」から逃避している感じである。

かくいう僕も、ここ暫くの圧倒的な労働量に押しつぶされて、以前のように「退屈を楽しむ心」を失っていたように思うのであった・・・しばらくこの場所で「退屈」について考えることにしよう、とココロに刻む34歳の晩秋であった。


※表題解題
「退屈」といって思い出す作家は、保坂和志(例:カンバセーションピース、この人の閾)、トゥーサン(浴室、テレビジョン)、チェーホフ(たいくつな話)、岡崎京子(表題)とかかなぁ。ちなみにアマゾンで「退屈」で検索してみたら「退屈しのぎ系」の書名が「退屈愛好系」を抑えて売れてる順の上位に・・・