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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

80年代と退屈

広告批評 1988/11「特集:引き算文化はいかが」を購入。メインは「ほしいものがほしい」というコピーに代表される、声高に注目を喚起する扇動的な世の流れに疲弊した末の「飽和感」の反動としての、「引き算の思想」についての対談。そこでは足し算的な意味の氾濫への反省としての「無意味」への希求、過剰な情報からの開放としての環境音楽や映像への関心、そして宇宙遊泳的な無重力・無感覚への関心が語られている。

でも人間は、精神的にヨルベキモノが全くなく、宙ぶらりんな状態である「無意味」に耐えることなんて出来るのだろうか?また、物理的にも無重力・無感覚的な頼りなさに耐えうるのだろうか?

こうした「引き算思想」や「過剰の果ての無気力」は結局、日々の生活の商業主義的な過剰さに起因する反動であり、精神的な均衡を保つための一時的な逃避でしかないのではないのだろうか。そういえば80年代末のコピーで有名なのが「お元気ですかぁ?」だった気がするけど、ああいう諧謔的な無意味さが新鮮だったのも、それ以前の過剰なまでの「意味付けの病理」を逆手に取ったからなんだろうなぁ、と思ったりもする。また、フリッパーズ・ギターの歌詞の一節で「意味の無い言葉を繰り返すだろう、向こうの見えない花束のよう」というのがあるのだけど、これなんかは80年代的な過剰さに対するパンキッシュな「構え」をうまく表現していると思うのだ。

で、結局ながら「過剰さと引き算」を振り子のように「いったりきたり」してるだけなんだろうな、こういうのって・・・で、当時の「無意味側に振れた振り子」に耐え切れない精神が、「自分の回りにある物事全てを言葉で言い尽くすことで構築された、安定した唯一無比の世界観」に身を委ねることを希求し、オウムなんてのが流行ったんじゃないかと思う。

ということで、こういう「引き算思想」は、僕の考えたい「退屈」とは異なるんじゃやないか、というところまで考えて今日の思索は終了。

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