日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

過去の自分の思索との対比

なんとなく、10年程前に自分が書いていた断片を読み返してみたい気になったので、昔のデータを引っ張り出して、自己引用しつつ読み返してみる。

ところで、当時の僕の関心事は「人(僕)は何故言明する(しなければならない)のか」「人(僕)にとって言葉とは何なのか」という感じで、その辺りを突き詰めるべく、ちょっと会社勤めもリタイアして、半年ぐらい誰とも喋らないで、ひたすらハイデガー西田幾多郎ラカンバフチン等の書物を黙々と読んでいた、のだった。そして「こんなこと」を考え込みつつ感じていたようだ。


存在することの疲れ
在ることの疲れ
ただ在ることの疲れ


存在という牢獄へ閉じ込められていることへの疲れ
そして、在ることから、逃げ続けることへの疲れ

ただ在るためには、言語が必要で
在ることから逃れるためにも、言語が必要で
そうして僕は
穴のあいた水がめに、あきらめることなく
水を注ぎ続けてきた

世界が僕を認識したとき
僕が存在し世界も存在する
しかしながら
僕が世界を認識しようとすれば
そこには貧弱なペーパークラフトが転がっているだけだ

そんなことはもう、どうでもいい
僕はふたたび
穴のあいた水がめに水を注ぎはじめる



いずれにしても、そこには言葉がある
自我は言葉だ
しかし、言葉は僕ではない

使い古された物言い以上に
いったい何があるのだろう
僕は結局、何も語ってはいない
そこには言葉が、与え開かれているだけだ


誰もが他人であり、誰一人として自己自身ではない

言葉を使う、思索する、自我を意識する
それは、与え開かれた言葉を維持することでしかない

自我への執着、言葉への埋没
それは確実に僕を衰弱させる
決して満たされることのない空腹

どれだけ言葉を費やしたところで
自我をこの手にすくいあげることなど
できはしない
それは、するりとこぼれ落ち
痕には、苛立ちと疲労が堆積していくのみだ

すべては言葉からはじまった、のだ



たとえば、まるで何かを抑え込むように
いちめんに広がるアスファルトのように
自我への執着とは、著しく人工的で
そして寂寥としている


文字の形に切断された疲労

だからといって、ただ在ることは
手足をもがれ、身動きがとれないかのように
まるで、むきだしにされた神経のように
痛みを痛みとして
なすがままに、蹂躙されること

立ち昇ることなく逆流する
不可視の叫び



※赤字の部分はペソアハイデガー、ツァラの引用


で、翻って今の僕の関心事はと言うと「人は何故退屈を忌避するのか」とか「そもそも退屈を感じるとはどういうことなのか」なのだが、当時(↑)の張り詰めた、今にも死にそうなピリピリした感じからすると、随分余裕があるというか 「ゆる〜く」 生きている感じがするが、これって大人になったということなのか、どうなのか。。。

少なくとも、自意識の成立する地点とか「ごにょごにょ」考えたり、自我をこの手に掬い上げるべく無明の闇で「ごにょごにょ」と言葉を連ねて詩作して、って感じは今の僕にはもはや無くなっている。むしろ「退屈」について考えることで、↑のような個人に閉じたミクロな視点ではなく、社会や欲望といったより包括的でマクロな視点に移行している気がするのだ。

で、なんで過去の自分を持ち出してこんなことを書いてみたかというと、「退屈」という問題を考えている自分を一度相対化してみたかったから、なのだが、視点は確かにシフトしているものの、言語能力はむしろ衰退しているのではないか、と思えてきて少し哀しくなる(+退屈についての思索も進展していない)。。。