堀江敏幸『熊の敷石』
上記は、堀江敏幸の芥川賞受賞作(表題)を収めた短編集。そしてその当該短編である『熊の敷石』を読んでいて、なんか「退屈」連動で考えさせられることがあったので、これまた覚書(備忘録)レベルでツラツラと書き連ねることに。で、考えさせられる契機となった一節を以下に引用してみる
公の悲しみなんてありうるのだろうか、とヤンの言葉を耳に入れながら私は思っていた。悲しみなんて、ひとりひとりが耐えるほかないものではないのか。本当の意味での公の怒りがないのとおなじで、怒りや悲しみを不特定多数の同胞と分かち合うなんてある意味で美しい幻想にすぎない。痛みはまず個にとどまってこそ具体化するものなのだ。※堀江敏幸『熊の敷石』より
ウィトゲンシュタインの他者の「痛み」についての論考(他者の痛みについては、自分の知りうる痛みを起点に想像できる範囲内でしか理解し得ない)をも脳裏に浮かべながら考えるに、日々の暮らしの中で蓄積される「どうにも説明のつかないような感情」について、じっくりと向き合い、ゆっくりと言葉にすることを忌避して、安易なカタルシスに塗れたニュースやコンテンツでそうした感情を昇華していると、ココロは薄くなって行くのではないだろうか。また、そのような安易な「悲しみ」や「怒り」が内包する浅薄さは、その想像力の浅薄さ・欠如故に、同情しているようでいて実は、その「身勝手な昇華」故に非常に暴力的なものを孕んでいるのではないだろうか(この部分は特に自戒を込めて)。そして、退屈忌避と、痛み等の自分の中に蓄積される名づけ得ぬ感情の安易な昇華は、根っこで同じものを抱えているような気がするのだ。