日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

写真と光り


唐突ですが、今日は「風」が「太陽の光」が9月を感じさせ「あぁ、もう秋なんだな、残暑なんだな」と思わせる感じの、まさに季節の変わり目とも言うべき一日でした。だもんで、どれこの季節の変わり目具合を写真に撮ってみようと、携帯のカメラで撮影しようと試行錯誤するも、まったくもって私の主観が感覚的に捉えた「9月という光の感じ」が切り取れないのだ・・・

そんなこんなで「9月という光の感じ」を切り取るのを諦めて、昨日(8/15)の夕方に撮った写真を、Photoshop で色感を操作して、自分が感じた「光り」の感じに加工したりしてみたのだが*1、やはりどうにもチグハグだ。


で、なんで急に写真ネタなぞ書き始めたのかと言うと、今月号のスタジオボイスの表紙を飾っている 野口里佳氏の写真に強い感銘を受けたから、なのである。その連作写真のタイトルが「バビロンを夢見て」という、私の最も敬愛する作家:リチャード・ブローティガンの最高傑作*2だった、ということもあるけれど、彼女の作品は須らく「光の切り取り方」が素晴らしいのである*3


私は写真については、全然知識もなければ造詣も深くないのであるが、しかし被写体という概念には、今まで物凄く違和感を感じていた。それゆえ、今まで写真というものに手を出さなくて「言葉で瞬間を切り出してやる」だなんて、ひたすら詩作みたいなことして過ごしてきたのだった。で、最近になって野口里佳氏の写真を見て漸く、何故に「被写体という概念」に違和感を感じていたのかが、わかったのだ。写真が切り出すべきは、被写体ではなく「光り」や「空気」であり、被写体は「光り」や「空気」を浮き彫りにするための道具でしかなかったのだ、と。

翻って野口里佳氏の写真に対する評論には「日常の風景がまるで月面のような異世界に」とかいう例えが踊るけど、そういう評論はえらく勘違いしてるんじゃないか、と思うのだ。現実世界の「光り」と「空気」の織り成す光景の素晴らしさは、そう簡単に捉えられる訳はないし、それを捉えるには相応の感性が、必要なのだと*4。だから、その稀有さ故に、そこに切り撮られた「光り」と「空気」をして、言葉の拙い評論家達は「異世界」のように感じてしまうだけなのだと。
 

*1:右の写真のように

*2:まるでチャンドラーのような私立探偵ハードボイルドかと思いきや、主人公の探偵は仕事依頼されたのに拳銃も持ってないぐらいに貧乏で、しかも始終白昼夢に浸り大事な仕事でヘマをやらかすわ、さらにいい歳なのに母親がああだこうだと世話焼きたがるという救いのなぁい駄目人間で、さらにその始終浸りきる白昼夢の世界では、ぬなんと彼はバビロンの王様で、という駄目駄目加減なん、だけどブローティガンの優しさとユーモアがその救いのない状況をステキなファンタジーに昇華して、というまさに「のびた0点家出編」のような作品

*3:作品でいうと「A Prime/フジヤマ」が特にそうなのだが

*4:景色じゃなくて、被写体でもなくて「光り」を捉えるには

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