日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

市民記者の台頭への反発に関する思考(断片)


既にあちこちで取り上げられているが、下記の記事(抜粋)は「記者という自分の立場」に胡坐をかいて居直っている、ようにしか読み取れない。「情報の真偽を確認し、伝えるべき事柄を掘り起こす。それを読みやすい形に編集し」って、それは記者の仕事ではなくて編集屋の仕事では?しかも「読みやすい形に編集し」というのは、単に文体を整えて(素材をリライト)云々としか読み取れないし。

▼振り返ればネットの黎明(れいめい)期、価値のある情報を得るのは難しかった。つたない日記や他人の悪口雑言…こんなものは読む気はしないだろう。時を経て、「電車男」(新潮社)のようにネットゆえの作品なども登場したが、情報の奔流を泳ぐのはなお難しい。

▼僚紙のホームページ作成に携わっていたときにも、こう考えた。玉石混交さまざまな情報の真偽を確認し、伝えるべき事柄を掘り起こす。それを読みやすい形に編集し提供するプロ集団が必要だと。思いは今も変わらない。新聞を殺せばその集団も消える。それはあり得ない。


だいたいに於いて、「情報の真偽を確認し、伝えるべき事柄を掘り起こす」というのも、順序が逆ではないだろうか。各々が専門的な視点で、政治なり経済の事象・政策等に対して常にアンテナを張り、そこから「点ではなく面として」「点ではなく時系列でのコンテクストとして」伝えるべき事象をその背景事情と併せて調査・抽出し、報告するのがそもそもの「記者の役目」なのではないのだろうか。はっきり言ってしまえば「速報」については、そこに居合わせた人間の誰がやっても大差がないのではないだろうか。

そうした本来的な機能の低下故なのか、社説やコラムに深みがまるでないし、大事な法案はきちんと取り上げられないし。、先般の「輸入権」のような法案が国会に提出されても、その文化的な問題点を見抜くことができない=記事にならないということばかり、が目立つのではないだろうか。国会では「瑣末な質疑+乱闘+牛歩+居眠り」しか行われている訳ではなく、実に多様で重要な法案が毎回提出され、審議されているのに*1


ところで、行政による情報公開が進みつつある現在では、それらの情報はきちんとWebで公開されているし、必要であればパブリックコメントも集められているから、別に記者でなくてもそれらの情報にアクセスすることも可能なのだ。それ故に「輸入権」や「下北沢再開発」の件が象徴的なのだが、個々の市民が問題意識を持って事象や政策を注視し、個人的な狭いインタレスト(=住民運動)ではなく、文化や社会という側面から、横の繋がりを拡げながら論議することができる素地がブログをベースに醸成されつつある、というのは既に明らかなことだ。

逆に、そうしたブログをベースにした議論でよく言われるのが「未だそうした問題を知らない人達」にリーチする方法がない、ということなのである。つまり、ブログや街頭署名運動などでは大多数の市民の関心を喚起できないため、結果として法案や問題等を阻止・改善することはできないからである。故にまさにその圧倒的なリーチという点に於いて、マスメディアの存在価値があると言うことができる。ただし、リーチできるのと「問題」に関心を持って貰うのとは別の問題だ。逆に言えば、マスメディアが「人々が生理的に関心を持ちやすく、感情的な議論を喚起しやすい問題」ばかりを取り上げる理由もそこにある。


私は現在の日本の状況は、そうした意味で非常に二極分化している、のではないかと感じている。一方では「ブログを媒介とした並列的な連携」をベースに継続的な問題意識を有する市民の台頭、他方では「掲示板・チャット的」な反射的に情報を消費(反応)するだけの市民の増加(特に若年層)。その意味で、既存のマスメディアが後者の指向に即して編集されていることは、明白なことと思えるし、またそれ故に「速報性」ばかりが重視されているのではないか、と思うのだ。

ところで、現在の「速報性の世界」で求められることは、インド洋沖地震が端的に示すように「単に現場に居て映像等を収めること」でしかないのであり、そうした行為はそこに居あわせさえすれば誰でもできることなのである。先の産経の記事の引用が図らずも示すように「記者の職業的なプライドの最後の砦」が、悲しいかな些細な「リライト能力」でしかないという現在の事態は、反射的に情報を消費(反応)するだけの市民が増え続ける限りに於いては留めようがないのである。

こうした状況への抑止力として、プロの記者には是非とも「ブログを媒介とした並列的な連携をベースに継続的な問題意識を有する市民」に反発するのではなく「共存して行く」ことを選択し、記者という職業の原点に立ち返ることを期待したいのでした。
 

*1:重要事項は事務レベルで議論されているにしても