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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ


本当は1ヶ月位仕事休んで「じっくり&ごにょごにょ」と考え込みたい余剰なモノが累積しているのだが、そういう訳にもまるで行かずなので、本日購入したこの本もいつ読了できるものかサッパリ不明、なのです。

で、この書籍ですが、当方がこのブログで本来的に展開しようとしていた「退屈論」の関連で手にとりましたのですが、目次と序論から読み取ったところからすると、ハイデガーの存在論をベースに、メディア利用における現存在の存在様態(退落)について論考している模様。

当方「もしも自宅の本棚から一冊しか本を持ち出せない*1」という状況に直面したら、間違いなくハイデガーの「存在と時間」を握り締めて駆け出す程に、ハイデガーの存在論については、一生もンの「思索の種」が転がっていると考えるような輩なので、ハイデガーをベースにした新しい論考には、割と手厳しい視点でアンテナを張っている方なのですが、この書籍は序論+あとがきを読むだけで、読む価値がありそうな予感を感じました。
しかも、奥付をみると著者の和田伸一郎氏は当方と全く同じ歳(69年生まれ)。なんとなく当方の「退屈論」の問題意識と基底には同じもの*2がありそうな気配、を感じつつ、時間をかけてジックリと読み進めることとしよう。

電話通話者たちの不安、あるいは高精細度の映像や仮想現実に向かい合ったときに覚える不安とは、「世界内存在」で有ることに固有の「不安」に関わる何かであり、メディア利用者たちの「孤独」、「退屈」とは、「存在」を気遣うことを忘れた「退落」的な有り方に関係する何かである、と。しかし、他方で、メディア利用者が「得体の知れないもの」に触れるときに感じるある種の喜びがあるのであり、それは「存在了解」の経験の「喜び」に似た何かなのだ、と。

「存在論的メディア論―ハイデガーヴィリリオ」 あとがき より


存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

 

*1:要は無人島に持って行く1冊的なこと

*2:もちろん当方には「深さ」も「広がり」もありませんが