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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

渋谷パルコと1991年大店法改正

ennui

目下のボンヤリとした関心事として、1991年の大店法改正前後の状況の比較を、渋谷パルコ文化=高感度で編集的な消費者像の出現を手掛かりにしてみたいなぁ、と考えているのでした。

それは80年代の渋谷パルコ、六本木WAVE、渋谷CSV等に代表される流通大手が仕掛けた「編集的な消費者」もしくは「モノを選ぶことで自分らしさを形成」する消費者像の提示&啓蒙(実践の場としての上記ショップ)と、その一つの帰結としての「渋谷系」のムーブメントがあり

実際当時のパルコは消費者は「創費者」へ変わったと宣言していた。つまり、現代の先端的な消費者は、消費することの意味を企業の発信するがままに信じるだけの「弱い消費者」から、その意味を鋭敏に感じ取り、取捨選択し、翻ってその意味を自分で創出し、自由に編集できる「高感度」で「創造的」な「強い消費者」に変わったと主張したのである。

<中略>

彼らから携帯電話やMDプレーヤーやスニーカーやリュック等々の私物をすべて奪ってしまえば、おそらく彼らは彼らがこだわる自分という存在のあまりの軽さにたじろぎ、ひどく不安に陥るに違いない。物がなければ、自分らしさの根拠などどこにもない。まず自分らしさがあって物を選ぶのではなく、物を選ぶことで自分らしさが形成される(ように感じられる)のだ。かつては共同体における役割が自分らしさを支えたように、今は否応もなく物が自分らしさを支えているのである。

『消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」』 from カルチャースタディーズ
http://www.culturestudies.com/consumption/consumption12.html

六本木WAVEでは、ヨーロッパやアフリカ、アジア、世界各国の音楽をもっともっと紹介していこうと。それと、同時代の音楽だけじゃなく、古い音楽にもいいものがあるということに気づいてもらいたかった。いろんな意味において、リスナーの価値観を変える、越える音楽の聴き方を提案する場にしたかったんです。当時のスタッフ間で合言葉のように使っていたのが、『ワープリスナーを増やそう!』。“ワープリスナー”っていうのは造語なんだけど、例えば“時代をワープする” “ジャンルをワープする” “国境をワープする”、そんな音楽の聴き方をするリスナーを増やしたかった

『そこに、六本木WAVEがあった!』 from WAVE
http://www.waveweb.co.jp/feature/feature0502_01.html

他方で、1989年からの日米構造協議やトイざラス等の海外大手小売業の日本進出を契機として、日本国内の流通構造が市場の閉鎖性を高めているとして欧米から批判が相次ぎ、そうした外圧の結果として、大店法の改正が1991年に行なわれた*1のだが、その後、この規制緩和措置によって大型店の出店競争が激化し、新規出店届出数は、1989年の794店から、1992年には 1,692店、そして1996年には2,269店へと増加。全体として郊外化、大型化が進むとともに、中心市街地における空き店舗問題も深刻化するという事態が進行する。

地方のプチ渋谷は仙台や盛岡などの都市の中心部にあるのではない。それは田圃の中にある。田圃の中のイオンショッピングセンターなどの巨大ショッピングモールの中にあるのだ! 周囲に何もない田圃の中に忽然と現れるショッピングモールの姿は、渋谷公園通りのパルコよりもはるかに東京ディズニーランドに近い。強い歴史の痕跡を持たぬ埋め立て地に蜃気楼のように現れたディズニーランド。それを複製したかのようなショッピングモールが今まさに日本中に増殖している。

『80年代消費社会論の検証』 from カルチャースタディーズ
http://www.culturestudies.com/consumption/consumption11.html

私が興味を持つのは、この大店法改正を契機に「編集的な消費者像」と郊外のプチ渋谷化(ショッピングモール)が平行して進行する文化的な状況である。音楽ということで言えば、大店法改正前後で、まずヴァージンメガストアが新宿に出現し、渋谷のタワーレコードが現在の場所に移り、渋谷HMVが出現し、CDショップの大型化が一挙に広がったものと記憶している。これにより、六本木WAVEや渋谷CSVのようなトンガリ君しか集まらない先端ショップのエッセンスが薄まりつつも、大規模に国内各地に横展開して行ったのだが、それもこれも、大店法改正ありきな現象であると言える。

即ち、80年代のパルコ/WAVE/CSV等の「編集的な消費者像」が、大店法改正により進出してきた大型店舗(特に外資系)のマーケティング的な基底というか、広範な売り場面積を在らしめる根拠として体よく組み込まれていったのではないか、と思うのだ。つまり、「編集的な消費ライフ」には、多種多様な商品を並べることが必要だ、だから大型店舗が必要なのだ、ということなのだ。

実際、これまたCD屋を引き合いに出すのだけど、渋谷のタワーレコードHMV等では、どう考えても売れ筋とは思えない、まさしく80年代には六本木WAVEや池袋リブロ脇の現代音楽レコ屋、或いは明大前のモダーンミュージックのような巣窟でしか買えなかったようなノイズや現代音楽のコーナーがしっかりと存在していたり、ワールドミュージックが普通に売られていたのだ。

 日本では、1991年にバブル経済が崩壊した。だが、少なくとも音楽の受容(商品、情報双方の)に関しては、その後も一種のバブル的な状況が続いた。その象徴的な存在ともいうべきタワーレコードの渋谷店が現在の場所に移動したのは95年3月のことである。店舗だけで9フロアもあり、その広大なスペースを埋めるために、古今東西のCDが有能なバイヤーによって、あらゆる手段を用いてかき集められた。日本のタワーレコードの特殊性は、何よりもまず、その品揃えの異常なまでのレンジの広さによっている。

『90年代以降の世界の中の日本音楽』 from atsushi sasaki@faderbyheadz.com
http://www.faderbyheadz.com/a-Site/column/article/japanmusic.html

ところが、面白いというか個人的には非常に悔しいのだが、六本木WAVE等のオリジナルは相次ぎ市場から消えて行かざるを得なかったのだが、その薄まったコピー達は臆することなく全国津々浦々、まさに神の遍在(ユビキタスってか)の如く残存し、勢力範囲を広げているのである。いや、本当に地方に旅行行く際には、必ずブックオフやツタヤ、或いはその贋物系の店で中古CDを物色するのだが、その品揃えの雑多さには、目を疑うことが多い(なんでこんなマニアックなのが売ってるの的な・・・)

また、id:gotanda6師が下記のエントリで取り上げているように、かつての「発信地」であった渋谷に、郊外のプチ渋谷勢力が逆流してきているのも、事実である*2

渋谷に東京靴流通センターができる日 from 犬にかぶらせろ!
http://d.hatena.ne.jp/gotanda6/20050307/kougai

とここまで書いてきたものの、引用だらけでちっとも自分の言葉で書けてないなぁ。ちょっとモヤモヤとした段階ながら備忘録的に、ちょっと書きなぐってみたものの、まだまだ視点も論点も整理できていない、ことを痛感しつつ、ひとまずここで休止(おいおい)

*1:特に大店法については、改正前は出店の手続に平均3.5年、時には10年もかかるという異常な状態にあった

*2:正直、文化村の傍にドンキが出来たのには、意表を突かれた