日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

「人類メディア化」時代 の先にあるもの


ヴィリリオの「情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間」は、メディア論だけでなく「退屈論」的にも非常に示唆に溢れる箴言が沢山散りばめられている良書であった。ということで、以下同書を読んで当方が考えさせられたことを、簡単に纏めてみる事とする。


同書でのヴィリリオの主張の根幹には「メディア化とは、文字通り人間から体験の直接性を奪うもの」であり、80年代後半の冷戦体制崩壊により顕在化した「グローバリゼーション」と、それと不可分に並存する「全世界に、同時に、リアルタイムに間接体験」を配信するグローバルメディア*1の登場が、「圧倒的な加速と拡張による現実の空間と時間の解体」をもたらした、という問題意識がある。


人類から「体験の直接性」が密かに、しかし圧倒的に奪われてゆく。そして、その代替物として、全世界をリアルタイムに「間接体験」可能な「情報」がその隙間を埋めるように浸透してきた。これが、90年代以降の現実だったのではないか。

「体験の直接性」が「間接性」へと置換される中で、人類は「より受動的な存在者」となり、またその背後で「情報」は現実に追い越される直前に売られ、次の瞬間には無価値になる。つまり、「持続性を有する情報」の無価値化が進む。結果、人類の「受動性」は極限まで高められ、何物も付与されることのない「退屈」を忌み嫌い「常に瞬間的な興奮」を求める「アンテナ」的な存在になっているのではないか。


そういう流れの先には「攻殻機動隊」の世界のような、人間そのものの「メディア化」とも言うべき「電脳化」と「擬体」の世界がありそうな気もする。そして、そのような世界では「体験の直接性」や「持続的な思索」等は「郷愁」的なものとして葬り去られているのかもしれない。

また、昨今のネット上での「炎上」や「過剰なバッシング」が、概して単純かつ反射的に「興奮」できる事象*2に対してであることも、こうした問題意識から照射することで何か得られるものがある、のかもしれない。


ところで、人間とはその根源より「意味の病」に恒常的に憑かれている存在である。即ち自らを取り囲む自然という「無明の闇」に「言葉という松明」を灯し、世界に意味(自己が存在する根拠としての物語)を付与することで、「死」或いは「無」という恐怖と抗ってきた、斯様な存在者なのではないか。

そのような根源的な存在のあり方を前提とした場合、「瞬間的な興奮」で「無明の闇」や「死」を常に止揚し、ひたすら「反射的」かつ「受動的」に存在することは、きわめて自然なあり方なのではないかとも考えられる。

つまり何が言いたいのかというと、人類の「ヨルベキモノ」が、聖書やイデオロギーのような「物語」への帰依から、瞬間刹那的で非体系的な「情報」の受動的な消費へと単にシフトしただけで、その「本質」に根本的な違いはないのかもしれない、ということ。
 

*1:CNNによる、湾岸戦争天安門ソ連クーデター、ルーマニアクーデター等のリアルタイム映像報道が象徴的

*2:賛成/反対、勝った/負けた的な平明な二元論に置換可能な事象