日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

「人類メディア化」と「退屈」


昨日のエントリの続き、というか id:kawachou 氏から「人類メディア化」に対して、脳科学視点から興味深いトラックバックをもらったので、それに派生して当方が考えたことを記しておこうと思う。

昨日のエントリで僕は 「体験の直接性が間接性へと置換される中で、人類の受動性は極限まで高められる」と書いたが、この部分は随分説明不足というか、展開が短絡的にすぎると反省していた部分なのであるが、この点を起点に id:kawachou 氏のエントリでは、下記のような指摘があった。

人が「生きてる」って実感したり、逆に退屈を感じたりするのは実はその情報自体の持つ価値とは全く関係なくって、その消耗具合によるんではないだろうかと思っている。言い換えれば人は脳細胞のいくつかを励起状態に保つためにエネルギーを使うことに生きがいを感じており、そのエネルギー自体には、わざわざ自分の体を使って得た情報であろうが、ネットで適当に検索してでてきた情報であろうが、その情報の取得方法にはそれほど関係ないのではないだろうか。<中略>

間接的体験によって得られた情報を脳内で記憶として格納維持するほうが、関連付けやリマインドの仕組みを工夫しなくてはいけない分積極性が求められるのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/kawachou/20050704


まず、脳内のパルス活動を活性化するための外部刺激については、その直接/間接性はそれほど関係ない、のではないか、という指摘は確かにそうなのかもしれない。でなければ、人々がゲームやメディア視聴にあれほどに「没頭」できよう筈もない、だろう。ただ、その刺激の直接/間接性の相違により>活性化する部位の相違については、「ゲーム脳」なんかの議論と併せて考える必要もある、というのも頷ける。

ただ、当方が「体験が間接化→人類の受動性高まる」と書いたのは、二つの意味があったのでした。ひとつは、体験に直接性が欠落しているが故に「プロパガンダ」的な操作を受けやすい、という意味。もうひとつは、人間が抱える「深い退屈」を先送りし続けるから、という意味だったのでした。前者の「プロパガンダ」の方は、それだけでかなり書けるのでここでは敢えて述べない*1


で、ここで述べたいのは「深い退屈」についてなのである。この「深い退屈」は、電車を待つ間とかのの「手持ち無沙汰」感が強い「状況的な退屈」とは根本的に異なる。それは、20世紀初頭のポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアが最初に言語化した「私が私であることの牢獄性」とでも言うべき恒常的な「退屈」なのである。この「私が私であることの牢獄性」は、産業革命>都市化と労働者の誕生>19世紀のロマン主義(神の死)という「自我の発見の歴史」の次の段階として、20世紀初頭に見出された新しい「存在の病」である*2

神を殺して手に入れた、ロマン主義的な「自我に対する手放しかつ楽観的な享楽」は結局、「代わり映えのしない毎日(時間)と生活環境(空間)」を漂う、存在者としての自己の有限性の前に敢え無く散逸する。しかも、自我こそが己を成立させる唯一にして絶対であると考えていた19世紀人にとって、無意識という制御不能で「野蛮な自然」が自らの内部に巣食っていることが発見されたことへの「絶望と反発」は図りしれないものがあった、のではないか。そうした反発の文脈に速度への圧倒的な憧れを示す「未来派」や、時間と空間の制約を超越する新聞やラジオ等のマスメディアの発展が位置づけられるのではないかと思う(つまり、新しい景色と刺激に溢れた毎日)。


このように「私が私であることの牢獄性」から逃れるために、「メディア化」による時間と空間を超越する試みが世界規模で成し遂げられたのが、20世紀という時代なのではないか。この時間と空間の制約を超えた間接体験=「メディア化」の実現により、人間は「私の有限性/牢獄性」という「深い退屈」から逃れることができるようになったのではないか。そこにはロマン主義のような楽天的な「自我への賞賛」は跡形もなく、むしろこの重苦しい「自我の牢獄」から逃がしてくれるものなら何でも受け入れる、というような受動的な存在様態が開示されているのではないか。

そして、「すべてを見てはいけない、また過剰な視覚情報に溺れてはいけない、それは思考の散漫化をもたらす」と忠告した古代ストア学派の警告は、「自我の牢獄」から逃れるために際限なく間接体験を摂取し続ける「メディア化した人類」への警鐘として、読み解かれるべきなのではないか。


と、ここまで勢いで書いてきたが、まだ「体験が間接化→人類の受動性高まる」の端的な答えになっていないなぁ(悩)・・・
 

*1:この辺りは、大学時代に纏めたレポートがあるので、そのうちスキャニングしてどこかに載せようと思う

*2:この辺りの詳細は、退屈の小さな哲学 (集英社新書) を読まれることをお奨めする