日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

創費者という幻想とスケールフリーネットワーク


ヴィリリオのメディア論に端を発したここ2回のエントリーの続きで、未だ満足に説明できていない「体験が間接化→人類の受動性高まる」に粘着して再び書きます。で、思考するための触媒を探して、興味はあったが未見だった「攻殻機動隊/S.A.C. 2nd GIG」*1のDVDをまとめて借りてきて摂取したり、ネット上を巡回してみつけた下記の記事を読んで、まず考えさせられたのは

「体験が間接化」し「情報/コンテンツの刹那的な消費」或いは「消費による物語の代替:創費者というあり方」が静かに深化している現代で、自分にとって違和感のない解釈/認知=快感原理に即した「選択認知」を人々はどのように形成し、また更新してゆくのだろうか、ということである。

だが、結果的に形成された世界観は世界そのものではないため、時として矛盾が生じることが出てくる。しかしそんな綻びを繕うために、世界観の再構成などは行われない。むしろ矛盾を正当化するような既存の認知の仕組みを強引に当てはめて、納得感を得ることで問題解決したことにしようとする。

もし世界観の延長上にあるべきものが見えないときには、既に知っているものの延長で、かつ自分にとって快適なものがあることにして幸福感を得ようとする。これらを拡大解釈とか選択認知と呼ぶことがある。要するに正しいかどうかよりも、自分の内部で齟齬が生じないように慣性が働くのだ。

「信じたい心」を増幅するネットワーク - CNET Japan


この点については、嘗ての「世俗宗教」や「イデオロギー」のような、全体主義的かつ一元的/直線的な「論理」に支えられた解釈/認知スキーマが既に崩壊し、個別主義的かつ複合的/非直線的なネットワークに支えられた現代に於いては、個体であるノードが自己組織的に一部のハブに収斂してゆく「スケールフリーネットワーク」のように、解釈/認知スキーマが個々の個体に伝播しているのではないかとも考えられる*2

そして、こうした考え方の「プロトタイプ」として考えられたのが、「攻殻機動隊/S.A.C. 2nd GIG」という「物語」なのではないか、という仮説のもとで、以下本テーマに関係ありそうな台詞を劇中から引用してみる*3

ゴーダ: 本来変質しないはずの情報の変質と、個性という名の幻想的オリジナリティが、今の社会システム内において、いとも簡単に並列化を起こしてしまうということだ。それを私は、【消費という名のクリエイト行為】と名づけている

攻殻機動隊/S.A.C. 2nd GIG/第9話「絶望という名の希望 AMBIVALENCE」

クゼ: 俺を最もがっかりさせたのは、人々の無責任さだった。自分では何も生み出す事無く、何も理解していないのに、自分にとって都合の良い情報を見つけるといち早くそれを取り込み、踊らされてしまう集団。ネットというインフラを食いつぶす、動機無き行為が、どんな無責任な結果をもたらそうとも、何の責任も感じない者達。俺の革命とは、そういった人間への復讐でもある

攻殻機動隊/S.A.C. 2nd GIG/第25話「楽園の向こうへ. THIS SIDE OF JUSTICE」


まず前者の引用は、自らの個性化のため編集的な消費を追求する「創費者」の概念を下地にしているものと推察される。また、後者の引用はこの「創費者」が世界を解釈し、行動するときにどのような反応を示すのかのモデルになる、のではないかと推察される。そして、何れについても「前時代的な全体主義的な集団」ではなく、ネットワーク時代の「ロングテール的な小さな集団」として、それぞれの個が一部のハブ(EPIC2014的なミニカリスマ)に収斂してゆくことを前提としているものと推察される。

で、当方が上記から考えたことは、「情報/コンテンツの刹那的な消費」と「創費者というあり方」が並存し深化した現代においては、人々は表面的には「個性」を標榜しつつ、実際は一部のハブ(ミニカリスマ)が提供する「価値=刹那的な快楽」なり「認知体系=存在根拠を提示する物語」を積極的にコピーして、自らの「選択認知」として採用しているのではないか、ということだ。つまり「個性」を標榜しつつ、その実は一部のハブ(ミニカリスマ)の「劣化コピー」と成り下がっているに過ぎないのではないか、と(しかもその根底には認知と消費に関する「快感原則」があるのみなのでは、ないか)。


つまり、「情報/コンテンツの刹那的な消費」と「創費者というあり方」は、日々新しい情報や価値を間接的に体験し、消費することで成立する在り方であるが、そうした在り方には必然的に、従来の自己の「認知体系」では解釈できない体験/情報に接する機会が増える。そこで、新たな「言葉」や「認知体系」を自ら思索し、導き出すことができる人間は少数派なのであり、大多数はそこでの「認知的不協和」に不快を感じ、それら体験/情報を解釈可能な(とそれに伴う快感を提供可能な)新たな「言葉」なり「認知体系」を代理提示してくれるものを求めるのではないか。ここに「個性」を標榜しつつ「創費的な消費」を行う存在様態に自己目的の反転が生じるのではないか*4

そして、こうした現象を推し進めるのが、ネットの遍在化と日常化なのではないか。つまり、一部のハブ(ミニカリスマ)が提供する「価値=刹那的な快楽」なり「認知体系=存在根拠を提示する物語」を容易に、自らの認知/言説に取り込み可能な各種ツールの存在。例えば「はてな」というツールでは、創費者的な情報供給をより速くそして絶え間なく行う「ブックマーク」という機能、そしてそこで消費した情報をベースに低負荷で「自己の個性化」のための言説を行うことを可能とするブログ機能における、キーワードの自動参照、或いはトラックバックや各種の引用機構の存在。


より速度を速める「情報/コンテンツの刹那的な消費」のサイクルを前に、それら事象(ニーズ)に対しての利便性提供という目的で提供されるツールが、そのサイクルをさらに加速させ、さらにそれに対応するためのツールが希求され、また新たなツールが提供されることで更に事象は深化してゆく。そこには必然的に「受動的な存在様態」が開示される要因が横たわってはいない、だろうか・・・


※う〜ん、時間かけた割には、依然として「体験が間接化→人類の受動性高まる」についてモヤモヤした思念が整理できていない(悩)
 

*1:「2nd GIG」については http://gispki.myhome.cx/ に膨大な資料あり

*2:過去の関連エントリー ■ 渋谷パルコと1991年大店法改正■ 時空間を超えて小さくなる世界■ オイラは退屈愛好家

*3:自己組織化的な並立化をもたらす電脳ハブの存在とか、電線の一部に負荷をかけ大規模停電を引き起こす話とかが顕著

*4:非常に自己矛盾した言説ですが、ここでは自己批判も込みで言説しております