日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

DADA NE SIGNIFIE RIEN (ダダハナニモイミシナイ)


パクリだとか、ナンだとかの炎上/喧騒に騒々しい昨今の我が国ですが、消費の主戦場がモノからデータ(コンテンツ)にシフトするにつれ、各国政府の産業政策までも巻き込んで、この種の争いはさらに激化しそうな様相を呈しております。

でも、ですよ、そうした「コンテンツ」が言語や音階等の形式や構造に則って創作されている以上、完全なオリジナルなんてものは、ありはしない筈なのです。そして、そんなことは前世紀初頭:1916年に登場した DADA、より限定的に言えば詩人 トリスタン・ツァラ によって、とうの昔に明言されているのです。

この DADA の首謀者で孤独な詩人である トリスタン・ツァラ は、「ボクは宣言を書くが、何も望んではいない。それでも、ボクは何かを言う。ボクは原則として宣言には反対だ。原則なんてのにも反対なように」と絶えざる前項否定を繰り返したり、カットアップ*1やコラージュ*2を用いることで、言葉の表層(記号表現)と意味(記号内容)の表裏の繋がりを破壊し、また論理/形式という言語作用特有の直線的で皮相的な表出作用の無意味さと、そこに「個性」や「創造性」があるものと思いこみ、それらにしがみつく人間社会の浅薄さを痛烈に批判したのである。


そもそも、言語とは「他者性の塊」みたいなもので、そこに完全なる「オリジナリティ」なんてものは、ありはしない。「オリジナリティ」にこだわる=自分には他者にはない独自の伝えたい何かがある、という自覚は、それが「オリジナルである」ことを主張可能なためには、私的言語:全く独自の言語体系と単語が必要になる筈だ。なぜなら「オリジナルな何か」が既存の言語、ましてや慣用句や常套句などで表現として定着させることができたとしたら、それはもはや「劣化した複製」でしかないのだから。他方で、独自の言語体系と単語を新作することで、それを定着することができたとしても、世界の「自明性を喪失」した分裂病患者の症例にある「言語新作」のように、他者には流通/伝播不能な不分明なものとして、意識と無意識の暗闇の狭間を無間ループする他ないものと考えられる。

そう考えると、そもそも人々が抱く「言葉として伝えたい何か」なんてのは端から存在せず、結局のところ、人間は言語を維持媒介させるための存在として、或いは遺伝子のキャリアとして様々な情報を「劣化複製」しながら漂よっているだけ、の存在なのかもしれない。


なんてなことを、ボクは20代の頃から孤独に思索したりしているのだけども、でもこんなことを考えながら、言葉を連ねている時点で「著しい矛盾がある」のは承知している。けれども、昨今のコンテンツの「オリジナリティ」を巡る様々を見るにつけ「傲慢なのにも程がある」という後味悪い嫌な気分で胸焼けする。また、人類がメディア化:体験の間接化が著しくなり*3、その「間接的な情報と思考」を絶え間なく「劣化複製」し続ける時代状況を鑑みるに、ツァラが抱いたであろう19世紀的な理性信奉への危機感以上に、恐ろしく危険な予感が、何か腹の底にどんよりと残るのであった。
 

*1:文学/芸術への諧謔的な批判として、新聞上に踊る無個性で月並みな言葉=常套句を単語単位で鋏で切り刻んで、無作為抽出で並べる詩作法を提案

*2:言語と言語により成立する社会の固定観念を痛烈に批判するため、有名文学作品や日常会話の間投詞的な常套句をコンテクストを無視して繋ぎ合わせて詩作した

*3:参考: http://d.hatena.ne.jp/cliche/20050703#p1