日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

劇場版ゼータガンダム「星の鼓動は愛」を観たけども


この三部作、なんだかそもそも「編集方針」が失敗している、というか、テレビ版ゼータガンダムを既に観ているファンを対象にしつつも、この映画を起点に新規ファンを掘り起こしテレビ版のDVDを見せるとか、そういう戦略が立脚点にあったであろうことに起因しているのか、ともかく純粋に作品としてみた場合に崩壊しているよなー、と思ってしまった。

多分、企画段階では、ファーストガンダムの三部作のような、時系列でテレビ版の内容を三部構成で見せる&新作カットでマニアを適当に喜ばせる、てな既存方針以外の編集方針が幾つか提示されたに違いない、と推察するのだけれども、きっとアナハイムバンダイ)が提示する企業の論理と、全方面&多方面に趣向が分散したマニアの論理*1の狭間で、全て霧消し、安全無難な三部作時系列+新作カット構成が採用された、のだろうなぁ・・・

でも、個人的には時系列じゃない編集方針で、ゼータガンダムの物語を再構成して欲しかった、という気持ちもあるのだけど、多分上記の各種論理を鑑みると無理、だろうなと思ってしまった余。


具体的には、かつてオルタナティブの主体であった者がぶち当たる現実との葛藤/苦悩をシャアの視点で主に政治劇として、多感な少年が抱える様々な「何故という視点」と世の中の現実/矛盾との軋轢をカミーユの視点で少年の成長物語として、そして85年のテレビ放送当時の男女雇用機会均等法サッチャー英首相が象徴的であった「女性の時代」が抱える様々な問題/苦悩をファの視点で少女の成長物語*2として、再構成してみて欲しかった、気がする。

これらの三部構成は、今の視点からのそれぞれの語り手の回顧録として構成し(この部分を新作カット)、旧作カットは全て回想シーンとして編集する、という形式にすれば旧作カットの見苦しさとか、違和感を解消できたようにも思うのだけどな・・・

でも、やっぱりこの方式じゃ、集客面で問題あるだろうし(ファ編が不人気とか・・・)、過去の成功例との比較による無難な判断をひっくり返すには難しい、のだろうなと、当時カミーユと同年齢でいまや36歳のボクはそう思うのであった(様々な現実の制約を理解しなくてはいけない立場になったが故に)。
 

*1:このMSを出せとか、このキャラの扱いの少なさはどうなのよ、とか思い入れの細分化

*2:エマとレコアの物語を主軸にファの視点でというニュアンス