日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

情報摂取のバランス(垂れ流しの駄文です)


なんだか最近、このブログの本題である「退屈論」について、まったく進展がないのだが。それはもう完全に職業上の必要性故に、ほぼ日々大量のWebコンテンツを収集/分析して、自分の中で大雑把に体系化して吸収することが不可欠なため、「退屈」について考える余裕が無い、というのがまぁ言い訳なのですが、そんな人間が「退屈」について考えようとするのも、なんだか面白い話だよなとついつい他人事のように俯瞰してしまう。本当であれば、ハイデガーの退屈論というか、体系的な退屈論としては始祖的な位置づけになる「形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独 (ハイデッガー全集)」を集中して読みふけりたいのは山々なのだけど、公私ともにそうは時間が許さないのだ、とかまた言い訳をしてみるのだが・・・


でもなんで、こんなことを急に感じたかとゆうと、目下引越し関連でネット環境が自宅にないうえに、連休だとか体調崩して一日休んだりとかしていると、RSSリーダーに物凄い量の未読記事が溜まってゆくのです。で、私のRSSリーダーには、職業上の観点で重要だなと思われる書き手のブログ(約60件)に加えて、はてなブックマークのタグの新着/注目のフィードも約40件加えているので、本当に泣きそうなぐらい情報が「読んでくれ、読んでくれ」とRSSリーダーの画面上で訴えてくるのである。で、これら記事は基本的にかなりフィルタリングされた情報群なので、全部破棄する訳にもいかず、ツラツラ眺めてゆくのだが、これが本当に大変なのだ。

しかも、基本的にこれらの情報はフロー系、もしくはせいぜいがコラム的なものなので、ハイデガーの著作のような数十年に渡って読み継がれる、もしくは執筆に数年〜数十年を要し思索され/体系化された情報ではない。ある意味では、「断片」を大量に摂取しているのみで、それらを「体系化」する思索作業がおざなりになっているものと言えるだろう。でも大量の「断片」の羅列は、設計図が無い+組み上げられていない色形状が様々なレゴブロックの集積のように何か「イライラ」と或いは「不安」にさせるようなものでしかない。だから「ひとまず」って感じで安易お手軽な「体系」を欲することになる、のかもしれない。けど僕は本能的にそういうのが大嫌いなので、ネチネチ同じ問題を執拗に繰り返し考えるのが好きなのだが、でもそういうのって「手早く名前をつけて」挙句に「○○は終わった」といって高速で情報/存在様態を消費している昨今においては、完全に古風で狂人の域に位置づけられるのかもしれないなと、なんだかふと空恐ろしくなった次第。