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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

Dialog in the Dark 2006 Tokyo

ennui


Dialog in the Dark」とは、「どんなに時間がたっても目の慣れることのない、完全な漆黒の闇」に1時間ほど滞在し、しかも「闇の中で静止している」のではなく、音や触覚を頼りに闇の中の回遊庭を散策するという「体験型イベント」で、その起源は1989年の「ドイツのアンドレアス・ハイネッケ博士のアイデア」にあり「その後16年間の間にヨーロッパを中心に18カ国、100都市で開催され200万人以上が体験」したものらしいのですが、当方は全くもって予備知識ゼロの状態にて、相方のお供で参加しました。

ところで、思い返すとその昔、当方は以下のように「完全な漆黒の闇」を想像しつつ、「人が言明するとは」どのようなことなのか、とか無駄なことを「ごにょごにょ」と暇にまかせて思索していたのですが、まさか本当に「完全な漆黒の闇」を、それも何のココロの準備もなく体験できるとは思わなかったので、突然のことに正直面食らいました。

ところで、人間とはその根源より「意味の病」に恒常的に憑かれている存在である。即ち自らを取り囲む自然という「無明の闇」に「言葉という松明」を灯し、世界に意味(自己が存在する根拠としての物語)を付与することで、「死」或いは「無」という恐怖と抗ってきた、斯様な存在者なのではないか。

そのような根源的な存在のあり方を前提とした場合、「瞬間的な興奮」で「無明の闇」や「死」を常に止揚し、ひたすら「反射的」かつ「受動的」に存在することは、きわめて自然なあり方なのではないかとも考えられる。
■日々常套句 「人類メディア化」時代 の先にあるもの


ところで、これも同じく過去の「ごにょごにょ思索」からの引用なのですが、完全なる闇の中に身を置いたとき、おそらく人は(というか自分は)暗闇の中で「其処」には存在しない何か(幻影)を意識せずとも勝手に見出すのではないかと想像していたのですが、暗闇に入って暫くの印象はまったく逆で「何の存在も感じない」というか「真っ白な完全な空白」の只中にいるかのような、そんな印象に包まれていました。

完全なる闇であれば、人間の想像力はそこに様々な幻影や妄想を反映することができるし、古来人々は闇の中から様々ものに名前を与え、その「存在」を抽出しすることで、無の闇に松明を灯してきた。そしてそうした言葉という「松明」により、猛々しい圧倒的な自然(含む無意識)から、精神存在(自意識)を守ってきたし、そこで打ち破れた場合には圧倒的な無明の他者(自然)に耐え切れなくなった自意識が崩壊する「狂気」が待っていたのだと思う。
■日々常套句 宇宙空間での退屈


しかし、そのような完全な空白/闇の中で様々な存在を感じる契機になったのが、実はやはりというか「言葉」だったのです。「Dialog in the Dark」ではアテンダントという案内人に導かれつつ、回遊庭を巡るという方式になっていて、このアテンダントの方が「ここはどのような場所であるか」「ここに何があるか」を暗示するような言葉を時々に提示するのですが、その言葉が発せられたとたんに、頭の中がその言葉に貪るようにかじりつき、闇という空白に「その言葉が指し示す存在感」を漂わせたり、或いは「全体的にはボンヤリしているが、一部分だけ鋭利に鮮明な具体的な映像」を映し出すようになったのです。

この体験がいみじくも「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉が神であった」という旧約聖書の言葉の意味することを朧げながら実感させるところとなったのです。つまり、完全なる闇/空白から人間を分かつこと、無記名のイメージに支配される無意識の深い眠りから「意識を措定」させ、取り囲む全てを「慣れ親しんだ」既知の記号で代替することこそが、「人間が自然から定立する」その原始的な宗教体験だったのではないか、ということをなんとなく実感するに至ったのでした。


※うーん、ここまで書いてみてもまだまだ未消化で泣けてくる(相変わらず)