日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

ゆら帝とdipと和サイケと


このあいだ、「ゆら帝」の「ミーのカー」を聴きながら、相方(筋金入りの dipファン)と談話していたとき「おんなじようなギター*1」なのに「こっちは(以下略)」してるのに「あっちは(以下略)」なんてな危険な発言をしだすので、周囲を見渡しココが自分の部屋であることを確認>安堵で一息の後、はたと考え込んでしまった。

確かに、醸し出される「モワ〜ッ」として「ダラ〜ッ」としたサイケな空気感と浮遊感は、演奏内容的には「ゆら帝」も「dip」も同じようにクオリティ高い、のは確かなのである。けれども、ボク(インディ初期からの老舗ゆら帝ファン)からしてみると、曲云々とかよりもCDという複製メディアに「録音された音」の「音圧」とか「空気感」が圧倒的に違うから「以下略」なんじゃないか、とか思ってしまうのだ。


多分、石原さん*2がプロデュースを始めた「アーユーラ?」で、それまでのドロドロで粘着した方向性から*3、60'sガレージ系なパキッとゴリゴリした方向を加味した辺り*4から「ゆら帝」はブレイクし始めたと思うのだけど、「ゆら帝」がそれまでの和サイケ*5と根本的に異なるというか、新しかったのは複製メディアである「CD」で、それまでにない「音圧」や「空気感」で圧倒的な「躍動感」や「真夏の昼下がりの朦朧」を提示できていた、からなんじゃないか、とか乱暴なことを暴言してみるのだが、どうなのだろう。

てなことを考えると、複製芸術であるCDの恩恵と罪悪をなんだかひしひしと感じてしまうのだよなぁ。だって、和サイケのバンドをライブで体験するのと、CDで追体験するのでは、圧倒的に何かが足りないなぁと欠乏的に困窮してしまうことが多いのだから・・・

ということで、複製芸術であるCDにおいて、和サイケの「音」のあり方を探求する石原さんや中村さんに敬意を表して下記のCDを貼りつつ、昼休みを終えることにするのであった。


Perfect Place To Hideaway

Perfect Place To Hideaway

*1:サイケでかっこいいという意味

*2:元:White Heaven、現:The Stars

*3:といっても、インディ時代の2ndの「奴隷と神様」は和サイケ屈指の幽玄系な名曲で長らく愛聴していますが

*4:それとドラムが現メンバーに代わった辺りから

*5:ホワイトヘブン、ハイライズ、マーブルシープ、ゴースト他