日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

距離と時間を超えられえないモノ


このところ国内各所に旅行に行くと、地元のショッピングセンターやスーパーを覘くのを常にしているのだが、そのような地方店舗の特に「鮮魚/青果/食肉コーナー」では、例えば「漁港の近く」なのに、おそらく本社一括/大量仕入れによると思われる「海外産の冷凍魚」や国内でも遠方の産地から「輸入」されてきた品々が、ズラリ並んでいる光景に出くわす。こうした光景は、国内の地方都市では、ほぼ典型的な風景なのではないだろうかと思うのだが、このようにして地方の財/消費は、首都圏に本社が所在する全国チェーンの売上げとして回収され、法人税も首都圏にて回収される。

他方で、このような状況へのアンチテーゼ含みなのか、地産地消というキーワードが唱えられてはいるものの、たいていそのような掛け声が遡上に上がる産物は、比較的都市部では稀少品/高級品となるよな海産物や農/畜産物なんかである訳で。そうすると、その当然の帰結としては、市場原理により「より高く売れる」市場である大都市や首都圏なんかに「輸出」され、地元でそれらが消費されることは稀である、というのが結局のところの構図なのではないだろうか。

そのような市場原理の帰結として、東京に住む私は、それら「地方特産品」を(輸送速度+鮮度維持にコストを割かれて運搬された結果として)新鮮な「刺身」の状態で(高価ではあるが)戴くことが出来る訳なのです。しかも、時間と空間を超え、全世界の情報がリアルタイムに流通する「情報社会/高度メディア化社会」で暮らすこの私は、地方の産品を「新鮮なまま賞味」できることが、リアルタイムな情報の流通と同じように「あたりまえの状況である」と無意識に納得してしまっている節があった。


しかし、この間訪れた山陰のとある町で、上記が如何に異常な状況であるのか、或いは「本来的な新鮮さ」に対する誤った理解をしていたのか、或いは知らなかったのか、ということを頭では解っていたつもりで、実は感覚/直接体験的に解っていなかったことを痛切に思い知らされたのである。

つまり、簡単に言うと現地で地産地消される新鮮な産物(今回は魚)は、今まで知っていた味に比して「とてつもなく美味い」のである。しかも、その町では、地産地消が徹底されていて、地元スーパーの「地産地消」コーナーには、地元漁港で上がった魚が新鮮/安価に並べられ、それらが夕方には全て売り切れているという、当方の今までの理解を超えた状況が日常化していたのである。


<昼休みが終わったので、続きはまた明日>