日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

続々:距離と時間を超えられえないモノ


縦に横に、マクロにミクロに脱線を繰り返していた「前回までのエントリ」ですが、もしかすると「物と情報のリアルタイム化」が実は「非常に脆弱な基盤」の上に成立しているということを、単に「ダラダラと書いていただけ」なのかもしれません。

或いは「情報」という「間接体験」の幻視的な伝播の波間に漂うこの私が、それら情報群が間接体験であることに対し、如何に無自覚に過ごしてきたのかについての「強烈な気付き/驚き」に突き動かされて、ダラダラと言葉を垂れ流してきただけなのかもしれません。


ということで、既に話しの展開がアヤフヤになってきたこの連投エントリーですが、こうしてダラ書きしてるうちに、ふと疑問に思ったことがあります。それは、「情報のリアルタイム化」により様々な消費/欲望の喚起が繰り返し行われる状況で、他方で「モノのリアルタイム化」が阻害される状況下で人は「その喚起された欲望」をどのように昇華するのだろうか(或いは、何で代替する、もしくはしないのだろうか)、ということなのでありました。

郊外型大型ショッピングセンターが国道/県道のアチコチに散在するこの国土において、或いは80年代以降「消費のキラビヤカな象徴であった渋谷」に郊外型店舗が逆流している現在において、情報とモノのリアルタイム化の帰結として、欲望と消費は時間/空間を越えて均質化してきている、のではないだろうかと乱暴な仮説を立てたくなる。それというのも、国内各地を自転車やクルマや鉄道で訪れてみて思うことは、案外アチコチに00年代前半的な渋谷的カフェがあり、雑貨屋があり、天然酵母な御洒落パン屋があり、でも本来的なセンスや知識量が問われる気の利いたオモシロ本屋やレコ屋はなくて、とかって状況を眺めていると、どうしてもそのような暴論を企てたくなってしまう、のでありました。


<ということで引き続き、昼休み連投でダラダラ続けます>