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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

今年二本目の映画「ポニョ」を観た

memory

既にブログ上での感想もひと段落した感がある「ポニョ」ですが、敢えていまさら観にいきました。で、感想としては「陽性な不思議さ」の一言に尽きるのですが、この感想を補強するためにちょっと脱線しましょう。

ところで私は、「今まで観た映画の数」は「年齢とほぼイコール程度」の僅かな摂取量であるのに対して、今まで読んだ小説は「我が家の本棚の現在の在庫量」だけで464冊という数量比が象徴的なように、基本は「文字から喚起される自分の具象/抽象的なイメージを大事にするタイプ」の人間なのです。ちなみに、摂取した小説的なバックグラウンドからすると、今回のポニョの感想は「陽性なマジックリアリズム的なソレ」といいますか、南米なんかのそれよりも、米国の下記作品などが脳裏に浮かんでくるのです。

世界の果てまで何マイル (ハヤカワ文庫SF)

世界の果てまで何マイル (ハヤカワ文庫SF)

他方でこの作品は、ある意味「インスマンスのニオイや痕跡」を感じるというか、ラブクラフト的な恐怖が底辺には暗く潜んでいるモチーフ/舞台設定ではあるのですが、観ている時にはそんなことは感じずに、後で「ありゃりゃ」と思いあたった程度で、やはり印象としては圧倒的に「陽性」なのであります。

ということで、脱線から回帰して、この映画から「陽性」な「不思議」さを感じた根拠に戻りましょう。まず現実と幻想が地続きで入れ替わる手法が、そもそもマジックリアリズム的なのですが、この作品も小さな港町の日常風景のザワザワとした雑多な感じが「以前訪れた島とかのニオイが脳裏に染み出す」程に非常にリアルなその前後に「幻想世界が突然カットインしてくる」とか、あとラストシーン間際の「自衛隊らしき救護ヘリがワラワラとしているその一瞬の映像」で、それまでの幻想世界から現実にぴゅっと戻させるその手法は「本当にすごいなぁ」と思ったのです。だからこの、現実と幻想世界間の「瞬間移動っぷりのコントロール」というか演出効果が実に素晴らしいなぁと、まず思った訳なのです。

で、陽性と書いたのは、ここに出てくる登場人物達が「突如、現実世界にカットインしてくる幻想世界」を、「まぁよくわかんないけど、そんなこともあるよねぇ」と正面から受け入れるその様、というか基本姿勢が、なんだか今まで摂取した小説にはない感じで「新鮮」だったのです。もちろん、物語の構造として「受け入れてくんないと話が進まない」のは判るのですが、「激流のように流れてゆくストーリー」のスピード感に逆らわず&ダイナミズムを削がずに「あっそう」って感じにテンポよくトントン/スタスタと受け入れてゆくその様が気持よかった訳なのです。この辺りが、どうもエセ道徳主義者とかエセ論理至上主義者の反感を買っていたようですが、そんな奴らには言わせておけばいいんです。そもそも現実世界なんて、本来は無明の闇に支配された「意味不明/魑魅魍魎/奇奇怪怪な意味無しワールド」な訳で、それをかろうじて言葉とか神とか科学云々等の「か弱い松明」を携えて「細々と生きながらえている」のが鏡に映った我々の本当の姿であるのでしょうに。だからこそ、そこから避けるために「現実を所与の前提で括った箱庭的な世界観の補強材」としてコンテンツを摂取し「ああやっぱり僕らは安心なんだ」なんて確認して、鼻くそ穿って暮らしている訳ではないかと。

それにひきかえ、この映画の作中人物はなぜか皆「我々が世界だと思っていたものこそが箱庭で、世界は別にあったのよねぇ」とあっさり白旗を掲げるその様が、なにやら新鮮だったのです。このあっさり感を強調するために、作中では「箱庭」に必要以上に拘泥する老婆が出てきますが、この辺りの演出もわかりやすいけど「うまいなぁ」と思うのです。まぁ、映画に関しては経験値が低いので「なにをそんな程度で」と思われるかもしれないけど、なんだか小気味よいよねぇと唸ってしまった訳なのです。

で今度は「不思議」の方なのですが、先に私が「文字から喚起される自分の具象/抽象的なイメージを大事にするタイプの人間」であることを明記しましたが、所詮自分の内部に抱えている具象/抽象のイメージの原型なんてタカが知れている訳で、どうにも限界があるのは否めないのです。そんな訳で、アートと呼ばれる括りの作品(絵画や映像など)のイメージが強烈に作用する瞬間ってのが私には、ちょこちょこあって、今回の「ポニョ」もまさにそのケースだったのです。ところで、私があまり映画を観ない理由は「実写とかSFXは、どうにも抽象度が足りないので、イメージの補強にはなり難いなぁ」と感じているからなのです。ここで言う抽象度とは、「妄想/幻想としての強度/特異性」或は「存在の礎を震わせる異常な体験」と言い換えてもいいかもしれません。

そういう「幻想としての強度/特異性」を強烈に感じたのは、「ポニョ」がアニメという表現手法で表現された抽象/幻想だったからなのではないかと思う訳です。有名な津波のシーンだけでなく、透き通った水面下に森と道があって古代魚が泳いでいたり、ダリの抽象絵画のように荒涼とした月が空にズーンと迫っていたり、随所各所に見たこともない風景が、このうえない程の存在感で佇んでいたのがこの映画のイメージの基盤であり、それが「現実を喚起させる瞬間と地続きで変化して現れる」その段差/断絶効果が、人々に「名状し難い不安(存在の不安)」を与える作用をしていたのではないかと。まぁ、その「名状し難いその不安」に名を与えようともしない一部の人々が、脊髄反射の挙句にしがみついたその先が「道徳」とか「常識」とか、もっとも手近なトランキライザーであったのも笑えるというか、なのですがね。そういう反応を引き出したという意味では、この作品はやはり成功しているのではないかと思う訳なのです。

なんだかまたも脱線してしまいましたが、ジワジワと現実認識を狂わせる背景の上で展開される、アニメーションならではの怒濤のアクションのダイナミズムがあればこそ、この作品の成功はあり得たのだなぁと強く思った次第、なのでありました(おしまい)。