日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

カヒミカリイ live @ 鎌倉妙本寺

実は、相方がチケットを購入してくれなければ、行くことがなかった、というか「カヒミのライブ」は今回が初めてなボクなのでした。正直言うと、カヒミに関しては「代理店的な仕込み感」というか「戦略的な雰囲気作り」が「音に先行してる」ような印象があって、あまり好きではなかったのでした。比較で言えば、ボクは「その時々の自らの興味と感性に従順に、音と戯れる」嶺川さんの方が断然好きな訳なのです。

が、今回のライブでかなり印象が変わりました。戦略とか仕込み感よりも、自らの足下/ルーツをしっかり見据えて、自分の音(声)を最優先して音楽を作っているというか、音楽/楽曲に自分の声の特性を「捧げている」のだなぁ、という主客の逆転が起きているというか。その辺りは、例えば「純正律による陽性のドローンサウンドとの融和」とか、限りなく「ピアニッシモな楽曲構成」とかに現れているように思えたのです。

朝生愛ピアニッシモな音楽が、クローディーヌ・ロンジェ sugar me 収録の「goodby jimmy goodby」辺りを彷彿とさせる、一定の湿度を帯びた「幽玄的な浮遊感」と「透明感のある儚さ」を喚起するとすれば、今回のカヒミのライブで喚起された「何か」は、「大人」な感性というか、幽玄とは逆象限にある「地に足がついた浮遊感」というべき二律背反的な不思議なものでした。笙が奏でる純正律倍音のレイヤーと、ピアニッシモカヒミの声の倍音が重なった時の、浮遊感は本当に素晴らしい瞬間/空間でした。

そういう意味で言えば、今回のライブ/楽曲には、平均律に支配された楽器は不要だったのではないかとも思える訳で、具体的にはギターなんですが、ギターがコードを弾くと、笙の純正律倍音との違和感がもの凄くて、ギターの音が酷くペナペナで安っぽい音に聴こえて、正直「あーぁ」って思うシーンが多々ありました。あと、ギターが鳴ると、どうしても「ロック」だとかの既成の枠組みに、聴く側の意識が絡めとられて「つまんないなぁ」と思うシーンがこれまた多々ありました(打楽器も音数が多くてウルサかったのも残念な感じでしたが)。かといって、安直にフィードバックとか強度を前提とする音響は、唯一絶対の構成要素である「カヒミの声との相性」が悪いので無理でしょう。とか考えると、脱平均律というか脱ギター的な楽曲構造への発展を是非期待したいなぁ、とリスナーとしては強く思った次第なのであります。