日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

新譜聴き倒れ伍拾:第50回 Lisandro Aristimuno の巻


Lisandro Aristimuno / Las Cronicas del Viento

ということで、聴き倒れラスト50枚目かつ「2009年のベストアルバム」として、アルゼンチンのアーティスト「リサンドロ・アリスティムーニョ」の4作目を上げたいと思います。リサンドロ・アリスティムーニョが紡ぎあげた本アルバムは、CD/パッケージという流通形態/媒体の終焉が囁かれるイマだからこそな「CD/パッケージであることの意義を根源的に問いかけ」その意義を体現/具現化したような、「上下巻の長編小説」のような二枚組:トータルアルバムなのです。この作品には、なんというか「時間を忘れて延々と夢中になって長編小説を読み続ける感覚」に近い何かというか、或いは「その小説の世界観/時間軸を共有する」ことでのみ「立ち昇るイメージ/空気感の豊穣さ」や「読後の余韻」に近い何かが強固/明確に存在するのです。そして聴き始めたら、最後までノンストップで延々と聴き込んでしまうし、どの曲が「あーだとかこーだとか」ではなく毎度ながら「全体として」聴き込んでしまうのです。

ちなみに音の方は、グローバリゼーションの所産としての「生活レベルの環境としての00年代的なエレクトロニカ以降の現代」とフォルクローレ的なアルゼンチンの「身体性・遺伝子レベルの記憶としての過去」が、「リサンドロ・アリスティムーニョ」という31歳の天才によって、その豊穣さと多様性タペストリーのように(もはや「ごった煮」ですらない、渾然一体「ひとつになった音」ということです)紡がれているといえばよいのか、もう「リサンドロ・アリスティムーニョ」という「新しい音楽」とでも表現する他ない感じで、ものすごく次世代感/普遍性を有する「唯一無二の名作」であるとボクは感じているのです。

ところで、このような音が生まれた背景には、米国/欧州という「中心」の外側で、グローバリゼーション with ネット社会という00年代的な所産としてモノと情報がリアルタイムに「相克しつつ交わる」場である新たな「周縁」が発生したことが大きいのかもしれません。他方で、ブルックリンのような「中心」の内側にできた「多様性の吹き溜まり/ビオトープ」から生み出される音が体現している「個々が交わることがないごった煮感」的なアイデンティの不安定さと比較すると、こうした「周縁」から生み出された音には独自の「安定感/軸足の確かさ」が醸し出されている点が興味深いのです。そのような差がなぜ際立つのかについては、おそらく「モノと情報」のリアルタイム/多様化には「リアルなヒト」の流動が隔てられていることの影響はありそうなのですが、この現象については引き続き来年も考えてみたいと思うのです。

ということで、新しい音楽との出会いを求めているヒトは上記のような「周縁」に注目してみては如何でしょうか、と記して今年の聴き倒れを終えようと思います(ところで、来年は中古CDの発掘に勤しもうと思ってもいたのですが、こうして「いろいろな新譜を聴き漁ることでのみ見えてくる風景」というものもあるので、また来年も続けようかなぁ…)

http://www.myspace.com/lisandroaristi