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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

2010年の音盤探索模様を振り返る【番外編/其の弐】


ラジオゾンデ / radiosonde試聴/購入】【解説

2010年という年は、ラジオゾンデの2ndレコ発ライブを筆頭に、お二人の演奏活動等に「足繁く通った一年」でもありました。その中でも特に印象的だったのは、6月|自由学園明日館 10月|Sound Diorama でのラジオゾンデのライブ、11月|津田貴司さんのワークショップ『みみをすます』、12月|キャラウェイでの青木隼人さんのライブでしょうか。

お二人の音は「みみをすます」というキーワードに象徴的なように、「音そのもの」への探求というか、音が立ち現れ → 空気が振動する「場所」への眼差しであったり、なんというか「音響が全ての行為から超越してる」感じがするのです。この感覚は、ボクのリスニング脳に多大な影響を及ぼしている Francois Bayle とも通底する感じがするのです。そして、お二人の音に「みみをすます」と、脳ミソの活動が「前頭葉から側頭葉へ」とシフトしてゆくのがハッキリとわかるというか…

そもそも音楽というものは、ある一つの方向にむけて構築され、記録されている閉じた世界だ。聴いてて「しんどく」なるのは、そうした排他的な「閉塞感」に理由がある気がする。

音楽って、実は特定の気分とか感情に偏ったものばかりなんじゃないのかな、とふと思ったりする


今から15年ぐらい前(ボクがまだ20代半ばだった1990年代半ば頃)、ボクはジャンル横断で多様な音盤を漁りながらも、上記のような違和感をジリジリと感じていた。そして、その違和感は2000年代も消えることがなかった、ような気がする。しかし、ここ数年徐々に「音そのものへ立ち還る」ことで、閉塞感を抜け出し「開放感」を獲得しているような、そんな作品に出会うようになってきた。それは、リサンドロ君等のアルゼンチン次世代SSWであったり、ラジオゾンデのお二方の諸作であったりするのだけど、それらは「形式/様式レベルの戯れでしかなく、駄作が多い雨後の筍的なドローンやアンビエントエレクトロニカ的な諸作」とは異なり、音に対して開かれた感覚が企図的に録音/パッケージングされており、そしてその複製メディアを再生することによっても「その開かれた感覚」が消えることがない、ように感じるのです(我が家のスピーカーが、こうした音響を再現するのに適したタイムドメイン・スピーカーである、という環境因子を差し引いたとしても)。なんだか、とりとめがない話になってきましたが、ボクはこっちの方向が本来的に好きなんだなぁ、ということを今年はツクヅクと痛感したのです。