日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

2020年の音盤探索模様を振り返らない

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 その年の「ベストアルバム」について、毎年12月末日に書くのが当ブログのループではあった。けど、今年はソレを止めた。

 2月に石原洋「formula」を聴いてから「言葉にするか/しないか」の境界をモヤモヤした何かが彷徨っていた。そして、リチャード・パワーズ「ORFEO」を昨日/今日で読み終えたイマ、そのモヤモヤを言葉にしてみてもよいかなと思い、こうして久しぶりにこの場所のドアを開いたのだった。

 「ORFEO」は、架空の現代音楽作曲家ピーター・エルズの物語である。彼はDNAを記録媒体として用い「聴くことができないが/永遠に残り続ける音楽」を作り出すために、自宅でDNAハックに手を染める。そして、ある出来事(誤認)をきっかけにテロリストとして追われることになるのだが、この物語は同時に、ジョン・ケージやハリー・パーチによって試みられた西洋音楽の解体の歴史と伴走しながら、その先を目指し/立ち止まり/逡巡する。

 ワタシがこの「物語/音楽史」を読みながら乱暴に考えていたのは、音楽は「パターン」とそれを支える「構造/秩序」によって単なる音環境から区別されるのだろう、ということだった。20世紀初頭の無調(シェーンベルグ)と非楽音(ルッソロ)により試行され、シェフェールやケージへと連なる音楽史の流れを脳裏に浮かべながら、或いはノイズ・ミュージックという矛盾した名称のカテゴリにおける「約束事/設定」の重要さを思い浮かべながら、ワタシは「パターン/構造/秩序」を否定しながらも、結局はソコからは逃げ出すことができない、そんな音楽という営みの「人間臭さ」に改めて不思議さを感じていた。

 とココまで考えて、改めて「formula」を聴き返した。この作品は大都会の雑踏という「膨大な情報が音として鳴り響く場」で収集された環境音と電子音をブリコラージュしたものが主題となっており、そこに歌とバンド演奏が埋没するように「遠い音」で重なることで成立している。

 この作品は「音楽が環境音の一部に後退し/聞き流されている」イマ的な状況を揶揄していると解釈してみることもできるだろう。しかしワタシは「人間が音楽に聴き入っているその周りで、人間に意識されないままに膨大なノイズが渦巻いている様子を現している」と解釈し、そこからの連想で「音楽は人間にとって、混沌とした環境から身を隠すアジールである」と考えるに至った。

 ところで「formula」には、歌とバンド演奏が消失した「ver.1」という別バージョンが存在する。「formula ver.1」を再生すると、ほぼ雑踏の環境音だけが一定時間流れつつけるという状況がソコに発生する。

 「ORFEO」の主人公エルズは、公園で聴きとった環境音等から「パターン」を見つけ出し、ソコ(生命)に音楽があると考えDNAハックへと駆り立てられた。「formula ver.1」をヘッドフォンで聴いたワタシは、この情報の洪水/混沌からどのようにしたら身を隠すことができるのだろうかと考える。色々と試した末に、結局は「歌とバンド演奏が遠くで鳴るバージョン」へと逃げ込むことになる。

 音楽という営みを介して、人間がどのように時間と空間に「目鼻立ち」を設え、そして混沌から身を隠しているのか、「formula」と「ORFEO」はそんなことを改めて考えさせる作品なのではないかと、そんなことをボソボソと呟いてみる。

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