日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

オイラは退屈愛好家


問:「退屈の逆は何だと思いますか?」

忘我ですかね。即ち、何かに夢中になって対象に没入している状態であり、日々の日常をループ的に過ごすことで自己の「存在」を忘却している状態でもあります。逆に言うと、退屈とは自己の「存在」を強く意識せざるを得ない状態、つまり、日常性に退落し「存在」を忘却している自己が、存在の有限性(死)や存在の牢獄性(自分であることに飽きることはできても、自分という牢獄に捉えられ自分から逃れることはできない)に不意に気付かされる、ということになります。このように、退屈は人が存在者である限りにおいて、いつでもそこに深い暗黒とともに横たわっているのです。


ところで、退屈愛好家の先人であるFISHMANSの佐藤君の歌詞にこんなのがありました

「目的は何もしないでいること」 from すばらしくて NICE CHOICE


またまた翻って考えると、このように「退屈でいること」を強く自分に命じ、宣言しないと人々は「常に何かしなくては」という気分に支配されてしまうのです。そして、日々の日常の中で「存在」を忘却していないと、人々は「存在」のあまりの重さに参ってしまい、クルパーになる人が続出する、に違いないと思うのです。そしてシステムとしての宗教(Not 原始宗教)が形成され、形を変えながらも依然として現存するのも、この「存在忘却」と大いに関係があると思うのです。つまり、神という名の自分以外の何物かを強く意識し、そこに没入することで、自己の「存在」は無化され、そこで「存在忘却」の至福の瞬間を迎えることができるのです。

そして現代では産業革命前の「神」の位置に「コンテンツ」が佇んでいる、のではないかと直感的に僕は思うのです。そして、更にいつでもどこでも「何かオモシロイ暇潰し」が提供される携帯やWebの登場により、何もしないでいる瞬間が確実に減少していると思えるのです。この過剰なまでの「存在忘却」が何をもたらすのか、はもっときちんと考えるべき問題である、と僕は考えているのです。そして、退屈を愛好するというのは、斯様な「システム(仮称)」へのささやかな抵抗であり、「存在」を真正面から受け止める試みでもあるのです。

なんて、一気に書いてみたが、まだまだ練れて無いなぁ。。。


【補足1】

上記を書いて、派生的に言葉になったことをメモ書き

・言葉は他者、言葉は「存在の牢獄」からの逃げ道

・言明するとは、それは例えるならば、牢獄の囚われ人が、牢獄の小さな窓から飛ばした紙飛行機(=言葉)に自分を重ね合わせて(託して)、牢獄から精神的に抜け出す様を想像し、刹那的に開放されるようなもの。


【補足2】

上の文章は「コンテンツは悪いモノ」という趣旨に読めてしまう気がするので、補足しておくと、単純なカタルシスを提供するものを避け、「わかりにくく、スルメ系の深み成分」で構成されたコンテンツ、例えばハイデガー西田幾多郎の書物を読むとか、ゴダール「映画史」を見るとか、そういうことが必要なんだろうな、きっと、という気がする

※右上の画像は、なんだかんだでコンテンツが溢れかえる筆者の部屋