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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

「かつて、退屈とは高貴な病であって、有閑階級のみが特権的に患う事の出来るものであった」


坂井素思氏による小論「贅沢な余暇と退屈な余暇−日本の余暇習慣に見られる現代の問題−」を読んだ。この小論文では、退屈が近代〜現代に発露した文明史的な問題であるとして、近代の産業革命/都市化における「退屈の大衆化」と、現代の高度消費社会の「情報/選択過剰がもたらす退屈」について論じられているのだが、以下の引用箇所を読んだとき、思わず「唸って」しまった。

「有閑階級」では「労働免除」や非生産的な時間浪費の程度を競争(emulate)して、より上位者であることを衒示する思考習慣が生成したと考えた。たとえば、つぎのものはヴェブレンがあげている有閑階級の示す労働免除ということのたいへん有名な例である。自分の手ではけっして食事をとってはいけない「ポリネシアの首長」、王座を自分で動かすことをしてはいけないために、暖炉の前に座りつづけて火傷をおった「フランス国王」という例をあげている。

【中略】

余暇をすごすということは、現在の大衆余暇とはちがって、有閑階級が他の下位階級と異なることを誇示するためのいわば、「高級文化」として制度化されていたものであるといえる。富や実力をより一層多く蓄えるのではなく、むしろ非生産的、非物質的な活動を行って、財や時間の浪費を示すことが社会的な意味を持つことになる。

原典 贅沢な余暇と退屈な余暇−日本の余暇習慣に見られる現代の問題−より引用


ぬな、これってもしかして「働いたら負け」なイデオロギーをお持ちの方々のことではないでぃすか。かつては、それこそ国王レベルしか享受できなかった「不労」を、現代では価値が「大貧民」というか、かつての最高の贅沢が著しく「コモディティ化」してしまっている、のでぃすな。うーん、この観点からも、退屈論を考えることができたのか、とちょっと急に目からウロコだったのでメモ書き。