日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

さよならCD、またいつか?


新譜100枚聴き倒れ」なんてな1年がかりなミッションを己に課して暮らす昨今ですが、そもそもこんなことを始めた一因には「CDなんてなメディアへの拘泥は、今年が最後かも知らんな」という風見鶏的な予感があってのこと、でもあったのです。

ここでブクマしている記事等を見るまでも無く、個人的には「脱CD」というか、そもそも「アルバムという形態でのパッケージング」からの離脱である「脱アルバム/NOTシングル」という流れは、世の中的には抗し難く加速してゆくのではないか、という予感がしているのでした。


まぁ、そんな断末魔の呻き声を電波妄想モードで察知して、「新譜100枚聴き倒れ」という阿呆な行為を粛々と進めている当方なのですが、実際問題アルバムというパッケージング形態って、シングル以上の単価で「より高く売るため」に技術の進歩と相俟ってマーケティング的な観点で登場してきたのではないかとも思えるので、別に「そもそも論」として、パッケージング形態=アルバムである必然性って別にない、んだよなぁとか。

もちろん、シングルの収録時間では対応できない長尺の音楽(ジャズのライブ録音やクラッシックやプログレとか?)をパッケージングするという、音楽的な要素も多分にあるとは思うのだけど、でもそれらはライブで直接体験すればよいとも考えられるので、まぁ必然性という観点では微妙かなぁという気もする。


で、デジタル音楽配信の時代になって(パッケージングするメディアの収録時間という制約が外れた今となっては)、当然のように1曲毎に試聴して、1曲単位で購入できるような制度になったし、ジャケットとかもないので、純粋に欲しい曲だけ買うシステムになった訳なのですが、そしたら売り手のマーケティング的な観点からは客単価を上げるためには、より多くの曲を購入させるという話しに尽きるのだろうと思います。

けれども買い手の立場からすると、価格根拠のために無理やり「捨て曲含めて頭数揃え」思考で括られたアルバムなんてな枠ではなく、「自分の好きな曲だけ厳選して」って方向に向かうのは必然というか、むしろ「捨て曲を無理やり買わされていた今まで」に対する無意識的なアンチテーゼとして、脱アルバムという買い方が「むしろ自然になる」方向に向かうだろうなぁ、という気がする。そしたら、やっぱりCDというか「アルバムという単位」でなんてモノは売れやしませんよねぇ、そりゃまぁ。この辺りの次の一手がうまく概念提示/機能提示が出来ていないのが「今の音楽産業」って言われている人達なんだろうなぁと、思う訳なのです(もちろん、音楽自体が大衆娯楽ではなく、相対的に「数ある趣味ジャンルの一つにしか過ぎない」という位置に後退したのも大きいでしょうが)。

ということで、我が家に大量におわします、レコードやCD達へのレクイエムとして、「新譜100枚聴き倒れ」を粛々と続けてゆこうかなと、そう思った次第なのでありました(つづく)。