日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

「自分探しが止まらない」と「嗤う日本のナショナリズム」

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

相方が某バンドのライブに出掛けてしまったので、お留守番を兼ねて上記の著作を自宅でノンビリ読了しました。ところで、この本は「自分探し」に嵌る「ベタな若者」を「メタな視点」で揶揄するシニシズムに溢れた按配なのかなぁと思って読み始めたのですが、著者はおそらく本書のための取材や資料研究を通して帰納的に、「自分探し」という普遍的な現象の背後に横たわる現代の情報消費社会の構造的な問題を提示する方向にシフトしていったのではないかと、感じた次第なのでした。

なので、あまりシニシズムというか「メタのメタのメタのメタ・・・」といった無限ループのポジション取りでベタや低層メタを揶揄する、というよりも「や、なんかマズイっすよこの状況」という危機意識が、肉饅の皮から滲み出る肉汁のように随所に感じられたような、そんな気がしたのでした。だから、この本を読んで、そもそも「自分を決めろ」的な格言/処世術めいた陳腐な反応とか、「自分とは何か」とか旧時代的な哲学論争(我思う故にてきなヤツ)なんかしている人たちの反応を見て「おいおい反応するのはそこじゃないだろ」と冷や汗が出てくる次第なのでありました。

ところで、この書籍は、Corneliusの「69/96」というアルバムタイトルがイミジクモ示すような「団塊世代団塊Jr.世代」の比較をフレームにしながら検討を進めているのだが、このフレームワークを使い現代の若者文化の分析を行った書籍に「嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)」がある。

この書籍では、共同体における繋がりの関係性の中での若者たちの「自己のポジショニング」の変遷を社会学的に分析しており、60年代末の連合赤軍に象徴的な「総括」という無限の自己反省(否定)のループの果てに、70年代のシラケ(抵抗としての無反省)が生まれ、そのシラケの土壌の上に糸井重里に代表的な皮肉(アイロニー)=言外のメッセージを「わかる自分」というシニシズムが「消費社会」に組み込まれ「創費者」という「違う自分」をアイロニーとスノビッシュな消費で表現する若者の時代へ、そしてバブル崩壊/構造不況〜ゼロ年代を経て現れた2ちゃんねる的な「広大なネット空間における蛸壺的なビオトープ」での「メタの取り合いのポジションゲーム」と、80〜90年代のスノビズムではありえなかった「アイロニーがベタに直結する」光景を辿ってゆく。

しかし、「嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)」では、このゼロ年代以降の分析が殆どなされておらず、その意味で「自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)」は、メタとベタが二律背反同居するゼロ年代の若者文化状況を「嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)」を引き継ぎ+別の視点で、「ベタに嵌る側」から分析しているのではないか、と感じた次第なのでした。というのも、「嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)」では、アイロニー(メタ)というポジションを取る「一握りの若者層」にしか焦点をあてていないが、現実の世の中では今も昔もどちらかといえば「ベタなポジションにズッポリ漬かっている人」の方が実は多数派なのではないか、とすら思えることが多いからなのだ。

蛇足ながらでそういえば、90年代半ばの大昔、とある雑誌の対談でオーケンオザケンが「俯瞰を捨てて、卓球になろう」的な発言をして盛り上がっていたけど、あれなんかも赤軍の総括と同じで、俯瞰のポジション取りのメタゲームに疲れ果て、ベタに流れてゆきたいけど、やっぱりメタな自分の良心がソレを許せないっていう、そういう逡巡が滲み出ていて切なくなるのだが(今の小沢君の活動状況の噂とか聞くと特に)、本来メタを志向していたスノッブやサブカルが、わらわらとベタに流れ込んでゆくのも、69/96そしてゼロ年代と続く歴史の流れの必然なのかも、とか考えると、69年生まれで「まさしく80年/90年代のアイロニーに絡みついたスノッブが骨の髄まで染み込んだ」我が身を思いちょっとおセンチになりました。

さらに蛇足で、当ブログの過去ログで「自分探し」で検索してみたら、ありゃまと「恥ずかしい過去ログ」がチラホラしていてポッと頬を赤らめてしまいました・・・