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日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

サマーウォーズと任天堂

<以下、まだまだ未消化だけど、ひとまずエントリーとしてあげておきます。後で続きを書くかも・・>

相方の故郷が舞台ということで、数週間前「サマーウォーズ」を映画館で観ました。実に驚くことに、映画館で映画見るの「今年はコレが1本目」なのだけど、それは脱線として脇に置いといて・・・この映画、横井軍平というか、任天堂へのオマージュを強く感じた次第なのでした(キリフダが花札なとこはご愛敬というか)。

で、妄想膨らましついでに、この映画に出てくる「OZ」というサイバー空間(電子政府とも接続)について言及すると、あれって、総務省の最近のICTインフラ政策(公的個人認証、国民電子私書箱、霞ヶ関クラウド)に、「誰もが参加できる」という任天堂Wii」的なコンセプト/アーキテクチャを重ねたモノなのであって、「グーグルゾン」とは違うもののような気がした。というか、日本政府のICTインフラ政策と任天堂が手を組んだ時に出来上がるであろう世界観、というのがまさしくこの「OZ」のような気がするのでした。

というのも、「OZ」はおそらく「誰もが参加でき、日常的に利用される」ことを設計コンセプトとしているものと推察される。また、その基本設計では「確立した個」ではなく「目的化したコミュニケーション」が先行する存在様態を前提にしているというかで、コンテンツ(キャラクターやアイテム)やアーキテクチャ(ゲームルール)はコミュニケーションに寄り添うように、あくまでも「ネタ振り&ボケ役」の役割として存在しているように思われ、さらに言えば「個」は人工知能や人口無能でも代替可能なように思われる(実際、映画はそのようなエージェントプログラムが鍵を握る)。ゆえに、「OZ」は、基本的にシステムに対して「個が先に立つ」ような「Google」や「Apple」のような現行のシステム/マン・マシンインタフェースではない、のだと思う。

また、「目的化したコミュニケーション」が先行することで、ライフログそのものがコンテンツとなり、そしてそのライフログの集積がカジュアルに可能になることで環境管理型アーキテクチャと地続きで連携可能となり、ゾーニングやフィルタリングとも連携するという「近未来なICT世界観」の具体的な姿が「OZ」なのではないか、と思われるのである。そんな妄想が膨らんだもんだから、冒頭の「日本政府の社会インフラ政策と任天堂が手を組んだ時に出来上がるであろう世界観」という印象が脳裏に浮かんだ、のでありました(続く?)。