日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

此処は退屈論=消費社会論を書くブログ、だったンだけど…

形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独 (ハイデッガー全集)

2005年以降、このブログの本来のテーマである退屈論=消費社会論を大きく進めることができないでいる。ちなみに、2005年時点の一応のまとめは下記の三連エントリー。

あと、退屈論に考えが及ぶ契機となったのは、ハイデガーだったのだけど、90年代中頃のボクは「人(僕)は何故言明する(しなければならない)のか」「人(僕)にとって言葉とは何なのか」とかを、ハイデガー西田幾多郎西谷啓治、ツァラ、ペソアヴィトゲンシュタインデリダラカンバフチンソシュール、クリスティヴァ辺りを、黙々と読みながら考えていたのだけど、その時考えていたことの断片は、下記のエントリーにちょこっと残してある。

そろそろ、上記のような90年代=20代の思索、00年代=30代の思索、ときて10年代=40代の思索をどうすべきかって模索しているのだけど、なんとなく朧げにみえているのが、近代以降の「個」のスタグフレーション的な「停滞(行き詰まり)と過大評価(誇大妄想)の複合体」とどう向き合ってゆくべきか、なのかなと思っている。

ところで、00年代中頃は「スマートモブズによる創発がラストモダン」みたいな希望論が脚光を浴びていたけど、この震災を巡るあれこれ(特に首都圏界隈なネット界)を眺めてると、そりゃ嘘でしょとしか思えない暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

俺様=消費者様で誇大妄想的に膨張した「個」とその承認欲求と、それが本質的に叶わぬが故の反転としての消費を媒介してのみ成立する蛸壺ゴッコ。そして、並列化や劣化コピーを増幅するTwitterというリアルタイムシステムが、蛸壺を横断し、創発とは言いがたいようなベタな反応を引き起こす。

もちろん、Google Crisis Responseのネット人海戦術的な共同作業の圧倒的なスピードとスケール等をみると、確かにすごい次世代感を感じるけど、でも希望論として考えられていた創発とは違う物で、やっぱり誰かがお膳立てして、それにノルという流れができないとスピードとスケールは生じないのかもしれないなぁ、とか…

そしたらこれって、60年代なお祭りパレードと方法が変わっただけで、本質はあんまり変わってない、んじゃないかなぁとか、グダグダと考え込んでしまうのです。まぁ、別に創発に希望を見出していた訳ではないんだけど、ヒトの意志(とその塊)みたいな人文的なモノに対して、どんどん違和感が膨らんでゆくというか、その反動として痕跡としてのヒト(データ)と、それを制御するためのセンサーネットワークや行動ログによるヒトや都市のリアルタイム制御(限定的で有限なリソースの最適配分)の方に興味がどんどんシフトしてゆくというか*1

以降、このごにょごにょ思索、10年スパンでゆっくり続く…

*1:しかし、他方で強い意志と忍耐力を有するビジョネアーは脈々と存在し続けている訳で