日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

朝生愛の新しさ


ラヴェンダー・エディション

ラヴェンダー・エディション


日曜日に偶然訪れたお店で、30分後に「朝生愛のライブが始まる」と知り、その邂逅具合にシドロモドロになりつつチケットをその場で購入し、ライブを聴いたのでした。で、今回の編成は、自身による「ギターとボーカルのみ」なシンプルな世界だったのですが、会場は、防音/遮音の加工はゼロで外から騒音が流れ込む、或いはキッチンからの調理や雑事の雑音がガチガチ反響する、およそ朝生愛の静寂ライブを行うには難のある場所ではあったのです。が、まぁそれは「致し方無し」と開始早々諦めました。


で、そんな不完全な音響空間で始まったライブを聴いていて、改めて思ったのは、朝生愛の音楽は「限りなくピアニッシモ」な音楽であることにその「新しさ」や「特異性」があること、なのでした。

アコギなんかでガツガツとコードストロークされる通常のSSW的な展開は一切無く、リッケンバッカーの小さなセミアコ型のギターから爪弾かれるのは、殆どが単音。ピッキングと残響を一つ一つ丁寧に、まるで「水琴窟に滴り落ちる雫のよう」に取り扱われるその音は、ピッキングハーモニクスを奏でるように「限りなくピアニッシモ」なのでした。

それはボーカルも同様で、感極まって熱情に任せ声高に「歌い上げる」ような通常のSSW的な展開は一切無く、消え入るような、囁くような呟きにも似た歌声が、無響室のヒダに吸い込まれて、音の粒子が消えてゆくのが見えるような感じというか、こちらもやはり「限りなくピアニッシモ」なのでした。しかし、かといってそれは甘い吐息のように弱弱しく、ベタベタした音ではなく、伸びた背筋から放たれる「芯の強さ」というか、硬質な「諦念」とでも言うべきストイシズムを感じるのでありました。


そして、このような音楽を成立たらしめているその根幹が、音響的に「常時、限りなくピアニッシモ」であること、に尽きるのではないかと思うのです。選挙演説のような爆音や、「サビ重視」のすぐに飽きの来る楽曲というか、いわゆるアテンション型の音楽=音楽となってしまった昨今ですが、或いは「ピアニッシモ」は「フォルテッシモ」を際立たせるためのフックというか仕掛け的な按配に軽視される昨今ですが、アテンションに犯されて「短期は損気」へと駆り立てられる時代風潮のアンチテーゼとして、こういう音楽を愛聴する感性は大事にしないといかんのではないか、と思ったりもする昨今なのでありました。


ちなみに、朝生愛を最初に聞く場合は、「常時、限りなくピアニッシモ」であることを追求した、上掲のセカンドアルバムから聴くことをお薦めします。また、同じく「常時、限りなくピアニッシモ」な感性を有する双生児というか、アテンションの反対側の音楽として、下記も併せて紹介しておきます。


ブラームス:間奏曲集(紙ジャケット仕様)

ブラームス:間奏曲集(紙ジャケット仕様)