「わかりやすさ」について
退屈について考えている際に 「脱線」 として、なんだか 「わかりやすさ」 って、ナンだろなということがふと頭をよぎったのでした。でそれは何故かというと、ここ数日 FISHMANS のアルバムを、手当たり次第棚から引っ張り出して聴いているのですが、そこで 「100ミリちょっとの」 を聴いていて、こう思ったのです 「わかりやすさってナンだろな、と」
例えば小沢君の 「LIFE」 は、もう全然僕には無理な感じというか(当時も実はあまり身を入れて聴けなかったのですが。。。)、わかりやすい刺激というか、「ハイ、いっしょにドアノックダンス」みたいな、何か強制的な注目喚起というかを感じて、げんなりするのだけど
佐藤君の 「100ミリちょっとの」 は、メロディはすごくキャッチーでわかりやすい、けどなんだか 「聴きたければ聴いてくれよ、俺らはゆっくり適当にやってるからさ」 みたいな不思議なゆるさがある、のです(僕にはそう感じられた)
そいえば、米国音楽にのってたインタビューでも佐藤君は、「世の中は注目を喚起するものやしたい奴等が溢れていて、ほんと暴力的だ」 みたいなこと言ってた気がするな。。。
今のとこ、単なる「メモ」でしかないのだけど、後でちゃんと書いてみよう
【補足1】
小沢君は「犬キャラ」とか「球体」は今でも愛聴してます
【補足2】
そいえば「LIFE」の頃、小沢君がインタビュー記事で「(LIFEへのウキウキ具合に反発するサブカル的評論家系な声に対して)わかりやすい暗闇みたいのが入ってないと駄目なのかねぇ(わかんないかなぁ)」みたいなコトを言っていたなぁ、というのもちょっと思い出した